季節はもう冬に入っていた。 十二月になって最初の土曜日に私は保育園の屋上で久しぶりに健二郎君の母親と話をした。その保育園は土曜日になると朝のうちに子供たちの昼寝用の小さな布団をそれぞれの親が屋上へ干して行くことになっている。布団カバーをはいで、布団の本体だけを手摺りに干し、カバーは家の持ち帰って洗って月曜日に持ってくることになっているのだ。送り迎えをする人は母親が多いので私ははじめ母親たちにまじってこのいかにも主婦的な仕事をするのがいささか気恥ずかしかった。 その日、健二郎君の母親は手摺りに布団をのせてパンパンと軽く叩くようにしてその四隅をのばし、それからゆっくり入口のところに戻ってくるところだった。 「あの...」 と言いながら健二郎君の母親は私の前までやってきて軽くあたまをさげた。 「先日はまた大切なソーメンを御馳走になったそうで本当にいつもどうもありがとうございます」 「いえ、そんな」と、私はその時健二郎君の母親を前にして意味もなくうろたえている自分を感じていた。 「大切なソーメンっていうのがとてもいいですねえ」彼女はいつもよりもずっと明るく見えた。 「あの、それから急な話なんですけれど、私たちはまたちょっと別の所に越すことになったんです」 「はあ...」 朝の風が私の方から彼女の方に向かって吹いているからなのか、その日は健二郎君の母親からきんもくせいの匂いはまったくしなかった。 「どちらの方へ越すんですか」 「ええ、ちょっとそれがまだ...。でも本当にせっかく健ちゃんたちのいいお友達が近くにできてとてもうれしかったんですけれど...いろんなイタズラばかりしてましたけれど、でも子供たちは本当にああいうのが楽しそうでしたわ」 私はそこで意味もなく笑った。健二郎君の母親も冬のはじめの朝陽のなかですこし笑った。それは考えてみると私がはじめてみた健二郎君の母親の笑顔でもあった。